2014年12月19日金曜日

遺品整理。

昨日、遺品整理の特集している番組をテレビで観ました。

5年前に他界した母、1年前に他界した父。
2人が住んでいた、今は空き家となってしまった
自分たちの実家を整理出来ないでいる姉妹が
業者に遺品整理を委託することを決意するという話。

空き家とはいえども、家具や食料品、衣類など遺品は全部そのまま。
まるで、今でも誰かが生活をしているような気配さえ漂っている。



私も妹が1人いて、もし、自分も妹もこの先結婚したら
きっと家を出ることになるだろう。

そしていつか訪れる両親との別れ。

そう考えると、自分たちと、テレビの中の姉妹を重ね合わせずにはいられなかった。


早く遺品を整理して、すっきりしたい妹と、
いまだ両親の死を受け入れられず、遺品整理の決意が出来ない姉。

私だったら、どっちの気持ちになるんだろう。

結局、プロ業者のアドバイスもあって、2人は遺品整理を決意することになるのだけど


出てくる遺品に、私はもう涙が止まらなくて。

姉妹は50代くらいの方だったんだけど、
幼稚園の頃に描いた似顔絵や、小学校のテストの答案用紙まで出て来たんです。

「お母さんってね、こういうもの大切に全部とっておくんですよ。」
という業者さんの言葉。

あー、本当にそうだな、と。
私も高校生の頃、押し入れの中に
自分が保育園児の頃に描いた絵や、賞状が出て来たことを覚えている。


結局、あれだけたくさんの物で溢れていたのに
きちんと整理をしてみると、手元に残ったのは段ボール4箱のみ。

姉妹が残すことを決めたもの。
卒業証書、写真、テストの答案用紙、似顔絵、ビデオ、両親の形見になるもの・・・

ほとんどが「想い出」だったんです。


それを観て、さらに涙が止まらない私。
やっぱり人間ってそこに行き着くんだなぁ、と。


番組の中で、姉妹が
「「いらない」という物なんて、何も無い。
だけど、全部をとっておく事は出来ないから。」
と言っていました。


本当なら、全部そのままにしておきたい。きっと私もそう思う。
だけど、全部を背負って、この先ずっと生きていく事は
物理的にも、精神的にも無理があるのだと思う。


その中でも、これは絶対残すんだと決めるものには、
必ず、何かしらの想い出が宿っている。

人はみんな、想い出と一緒に生きているし、
誰にだって大切な想い出は、絶対にある。
これを失くすことは、とても辛いこと。


物はたくさん溢れているけど
断捨離をすると、本当に大切なものは「想い出」。


人の死を受け入れることは、
とてつもなく長い時間と、労力が必要。
人生を生きていれば、必ず誰かの死には直面するし、
その事実を受け入れなければいけない。
本当に、本当に辛いし、自分も消えることが出来たら、どんなに楽だろうとさえ思う。
だけど、「想い出」を失くさなかったら、
その中で、その人との時間は生き続ける。
だからどんなに時間がかかっても、いつか受け入れることが出来る。
遺品整理は、遺品を整理するだけでなく、
遺された人の心の整理にもなるのだと思う。



東日本大震災の時もそうだった。
テレビに写る、被災地の方々はみんな、
ぐちゃぐちゃになった家の中で、必死に「想い出のかけら」を探していた。

「この写真があるだけでも、本当に有り難い。」

そう言って、泥だらけの家族写真を握りしめていた女性。






私にも、きっといつかはこういう瞬間が来るんだろうな、と
テレビにうつる姉妹を観ながら思った。

その時、私はどんな行動をとるんだろう。
生まれてから、大人になるまで、家族みんなで過ごした
想い出いっぱいの家の中が
からっぽになった時、
姉妹はどう思ったんだろう。
私だったら、何を思うんだろう。


と、同時に、この番組を観て、帰る場所のある有り難さを、改めて強く感じた。

私は高校卒業と同時に、家を離れた。
離れたくて仕方が無かった家。
実際に離れてみると、すぐにホームシックになって、
大学1回生の時は、母に電話して「大学をやめる」と大泣きしたこともあった。

だけど、ここまで頑張ってこられたのは
帰る場所があるから。

下を向いて帰っても、あたたかく迎え入れてくれる家族。

「何かあっても、私には帰る場所がある。
だから、まだ少し、ここでふんばってみよう。

疲れたら、本当にもうだめだと思ったら、みんながいる家に帰ればいい。」

そんな想いがあったから、
1人ぼっちから始まった、見知らぬ土地でも、ずっと頑張ってこれた。
今もそう。

実家に帰る回数は、社会人になって減ってしまったけれど、
それでもやっぱり家に帰ると
幼い頃の想い出がたくさんよみがえるし、
あー帰ってきたーって、ほっこりする。


本当に、大切にしなきゃいけない場所。


年末、家に帰ったら、いつもよりいっぱい、家族と時間を過ごそうと思います。
そうやってまた、大切な想い出が増えていくことに感謝しながら。




2014年12月7日日曜日

スタイルをもつ、ということ。

ケータイから見てくださっている方へ。
改行がおかしなことになっていると思います。
このページの下の方にある
ウェブバージョンを表示を押して
そちらで見てもらえると
より見やすいと思います。






日曜日。

今日は、ずっと行ってみたかったカフェへ。

*cafe mement mori*
http://mementmori.net

平安神宮近くにあるお店です。
mement moriとは、ラテン語で、
「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」
という意味の言葉。





オープンと同時に行ったので、1番乗り。
直感で座りたいなーと思った、道路に面した窓際の横並びの席へ。
一緒に行ったのは、
会って、話をする度にいつも
「私って実はなんでもできるんじゃないか!」って
素敵な勘違いをさせてくれる大好きなお友達。
彼女のおかげで、前向きな気持ちでいられるし、
いつも忘れそうになる大切なものとか
見失いそうになる自分の軸を
ちゃんと思い出させてくれる大切な存在です。


行く前は、HPでメニューなどを見て、このお店のお料理が気になっていたのだけど、
実際に行ってみたら、まず、このお店の”空間”に心を奪われました。



私は、空間の魅力って”余白”にあると思っていて。


自分のお部屋でも、壁にポスターや、コルクボードを飾る時、
その”物”自体のバランスを見ているんじゃなくて、
私はいつも、その物以外の場所にできる”余白”を見て、配置を決めている。
飾る物ではなく、飾られている壁というスペースを意識する。
これと、これの間には、これくらいの余白があった方が、心地よいなとか。

文章を書く時でも、何行あけるか、どれほどの空白を残すか、どこで折り返すか
なんとなくだけど、意識して決めている。
それは小さい頃から続けて来た、書道の影響もあるかな。

決める基準は、全部自分の「心地よさ」。

このカフェの空間にある余白は、私にとって、とても心地の良いものでした。
だから私は、すごく好きだと感じました。
この感覚は人によって違うと思います。
「なんかがらんとしていて、寂しいな」と感じる人もきっといるはず。

計算されているのかは分からないけれど
キッチンの上の方に取り付けられた棚と、その上下の余白、
そこに店員さんが立つと、1枚の写真みたいに、すごく絵になって。

なんだか非日常を感じさせてくれる空間でした。



そしてまた、お料理が期待以上に素晴らしかったのです。

天ぷらにバルサミコソースとか。
はくさいと人参の和え物に、赤かぶらの漬け物が入っていたりとか。
組み合わせが斬新。だけど、どれも調和していてすごく美味しい。
量もちょうどいい。とっても美味しかったです。
また絶対リピートします。



そしてこのカフェで出会えた雑誌の内容が
とても良かったのでちょっとご紹介。


「スタイルを持つ、ということ。」


という見出しに惹かれて、開いてみた1冊。


1ページ目に

「人生とは、旅である。」

またさらに惹かれる見出し。
すっかり引き込まれてしまいました。



「自分のスタイルを持っている人は、
自然と深みが出て、良いオーラを放つから、魅力的に見える。
そうでない人からは、それが感じられない。」



スタイルというのは、
様式、格好、品位。
解釈は様々だけれど、
ここでいうそれは、噛み砕いて言えば、
自分の好きだと感じるものや、大切にしたいこと、もの。


「朝、お気に入りのグラスで水を飲むことから1日が始まる」


え、かっこいい。


確かに、身の回りのものを
自分のお気に入りや、思い入れのあるもので揃えたら、
それだけで幸福を感じられるし、満たされた気持ちになる。
新しい靴を履いたら、いつもよりたくさん歩きたくなるし、
気に入ったお皿を買ったら、ちょっと凝った料理をしてみたくなる。
なんでもない1日が、愛おしく感じるだろうし、大切にしようと思う。

そこに妥協は必要無くて。


私の書道の先生が、最近私にくれた言葉を思い出した。

「自分が好きだと感じたもの、いいなと思ったものは、
後回しにせず、買いなさい。
少しくらい高くても、いいと思ったその時に買うの。
後回しにしていたら、結局それは手に入らないし、
数年後の自分が、またそれを同じように魅力的に感じるとは限らない。
今の感性で、今、”素敵”だと感じる、その気持ちを大切にしなさい。
それは必ず、後々の自分の人生に生きてくるから。」


この言葉を頂いてから、自分のものに対する考え方が変わった。
ファストファッションや、ファストフード。
気軽に安く、なんでも手に入ってしまう時代。
大量生産、大量消費。
もちろん良い面だってある。だけど、
だめになっても、「安かったから、まあいっか。」と捨てる。
おいしくなくても、「まあ安いしね。」と残す。
これが当たり前になっている生活は、見直すべきなんじゃないかなあと思います。


そして
生まれながらにして持った、人それぞれの感性は
大切にして、磨いていくべきだと思います。
これから先も
もっといろんなものに触れたいなあ。



最後に、この雑誌に書いてあった
心に残った文章を抜粋。


「米国の物理学者ベンジャミン・フランクリンの格言
”Time is Money"は、
”時間はお金くらい大事だから、無駄無く効率的に使うべき”
と捉えられがちだけど、本質的な意味は、
”時の流れの大切さ”を言っているんだと思う。
たとえば、お茶を淹れる時のタイマーは、
デジタルのほうが、ピピッと鳴るまでの時間を
有効活用できるという点ではいいのかもしれない。
ただ、焦っていろいろ詰め込むよりも、
砂時計の砂が落ちるのを眺めているほうが、
心に余裕が生まれていい。
それが、愛着のあるデザインの砂時計なら、なおさら。」




ちなみにその雑誌というのがこちら。
家に帰ってすぐ、ネットでバックナンバー購入しました。

&Premium 8月号



本日も、良い1日でした。



2014年11月30日日曜日

20000人 VS 500人

「のぼうの城」という映画をおうちで鑑賞しました。

2012年の作品。主演は、野村萬斎さん。

公開された当時、

天才か?ただのでくのぼうか?

ってゆうキャッチコピーが気になってて、
けど映画館へは結局見に行けず、
去年のお正月に地上派で放送されたものを録画して
ずっとそのままになってたのを、やっと見ました。

でくのぼうと呼ばれた、
強くはないけれど、人気だけはある男が
豊臣軍率いる2万人の軍勢相手に、500人の村人と共に
城を守る為に立ち上がるお話。

私、日本史に関する知識が全く無くて。
出てくる人みんな歴史上で有名な方々なんだろうけれども
私にとっては、ほんとに「はじめまして」って感じで。
私みたいな人は、あらかじめあらすじを読んでおくべきです。笑

私がこの映画から感じたのは、
「人徳」は人生において、大切だということ。
抽象的な表現だけど、だからこそ「こういうもの」とはっきり定義できないのだけど。
やっぱり人の心を動かすのは、人の想いなんだなあって。
武力にも、お金にも、地位にも勝る。
だって、それらは所詮、全て人がつくりあげたもの。
だから人の想いには勝てない。

登場人物が大笑いするシーンがたくさんあるこの映画。
見ていて、私も思わず笑顔になってしまった。

「ありがとう」や「ごめんなさい」をちゃんと口に出して言える。
身分関係なく、誰にでも同じ態度で接することができる。
自分が正しいと思ったことは、最後まで貫く。
そうやって、自分の心に、他人に心に素直に生きる主人公の人間性は、
見習うべきものが多いなあと感じました。


「素直」に生きること。

*******************************



先日、10年前の自分から手紙が届きました。
仲いい友達はあの子で、好きな歌手は誰で、
「あー中学生だなー」ってことばっかり書いてあったんだけど
最後に、
「10年後の私にはぜったい笑顔でいてほしいです。
つらいことがあったりしても、私なら乗り越えられる。
自分信じて毎日HAPPYにねっ!」
と書かれていて、思わず笑ってしまいました。

このタイミングで届いた、15歳の自分からのメッセージに
不覚にも元気づけられる自分。


2014年もあと1ヶ月で終わります。
今年は、周りの人たちにも変化が多くて、
自分も何かと考えさせられる年でした。
気づけば、来年には20代後半に突入するわけで。


やっぱり自分の「やりたいこと」や「心が向く方向」には素直でいたい。
平凡な人生じゃなくても。ちょっぴり羽目を外しても。
というか私にはそっちのほうが合っている。


長い間、自分の中のふたをしていた部分と
ここ数日ずっと、久々に向き合っています。

くるくる心模様は変わるし、考えも行ったり来たりするけど

自分の中で、もう何年も前からずっとブレないものって
それが自分の芯になっていくと思うし、(というか既に芯なのかな。)
絶対に大切にしなきゃいけないものだと思うのです。


やっぱり素直に生きていこうと思います。


2015年は「行動」の年。



ちょっと早いけど、来年の抱負。









2014年11月20日木曜日

おじいちゃん。

この前、おじいちゃんのお誕生日でした。
お昼休みに、ふと思い出して、すぐに電話。

電話のむこうで、相変わらず元気なおじいちゃんの声。

「今日やったかー?あー、そうや、今日やわ。ありがとねぇ。」
「おんし、元気にやっとるかよ?」
(うちのおじいちゃんは、相手のことを「おんし(おぬし)」と呼ぶのです)

なぜか涙が出る。なんでだろ。
おじいちゃんやおばあちゃんと電話で話すと、いつも涙が出る。

79歳にして、現役で車の整備士をしているおじいちゃん。
小さい頃から、おじいちゃんはいろんな面を持ったすごい人だと思ってた。
うちは自営業。
車の修理工場を営んでいる。
その工場を立ち上げたのはおじいちゃん。
きっと若い頃は、苦労もいっぱいあったんだろうな。

いつもつなぎ姿で、真っ黒に汚れながら、車の下にもぐっていた。
もちろん大型車も乗りこなす。
その一方で、畑の手入れは欠かさず毎日していた。
私たちが小さい頃、いつも体をはって遊んでくれた。
高い高いしてもらったり、おんぶしてもらったり、
ジャイアントスイング的なことされたり。笑
なんでかよくわかんないけど、蝮も猪も食べる。
大河ドラマや、金曜ロードショー、野球中継は欠かさず見ていて、
とにかく物知り。でもそれをひけらかさない。
聞けばいろんなことを教えてくれる。
まじめな顔でお仕事してるけど、
実は変顔が得意。
そしてよく笑う。

離れて暮らしている今。
この先100歳まで生きてくれたとしても、
あと何回会えるのかな。

どうかずっとずっと元気でいてね。







新幹線の中で。



11月4日に書いたこと。

昨日の帰りの新幹線。
前の席に座ってた男性が
「あの、すいません。
ちょっといいですか?」
と隣の席の女性に話しかけた。
二言、三言交わした後
女性が自分の隣に座っていた
小学生くらいの男の子と席を入れ替わった。
その子は女性の息子さん。
「なんだろー?」
と思って見ていると
男の子が持っていた野球カードのコレクションを男性に渡した。
どうやら男性はこれが気になったらしい。
そこからふたりの間にはたくさんの笑顔。
男の子も自分の好きなものについて聞かれて嬉しそう。
話に花が咲いて、
共通の知り合いがいることもわかったらしく、
とても盛り上がっていた。
気がつけば、私の横の席に座ってた老夫婦も
笑顔でその様子を眺めている。
もうこの人たちと出会うことって
この先きっとないんだろうなあと思う。
たまたま乗った新幹線が同じで、
たまたま席が近かっただけ。
ただの偶然といえば、そのとおりだ。
だけどこの場で
あったかい感情を共有できたのは紛れもない事実。
その事実によって、ただの偶然が、何か意味のある偶然に変わった。
私は別に
言葉を交わしたわけでもなんでもなくて
ただ後ろの席から眺めていただけだけど
とても幸せな気持ちになった。
人と人との関係って本来こうあるべきだと思うし
みんな実はそれを求めているんじゃないかなあと思う。
この男性のように、
子ども心や好奇心、優しさの混ざり合った素直な気持ちを
持ち続けることは難しい。
年を重ねれば重ねるほど
周りの目や、常識という枠にとらわれがちになる。
私だってそう。
最近は、子供にアメ玉をあげることすら安易にできない世の中。
知らない人から話しかけられたら
疑いから入らないといけない世の中。
そんな時代の中で
こんなあったかい心の交差を目にすることができて
とても幸せだったわけです。

里帰り。



10月20日に書いたこと。

この前の3連休は実家に帰ってました。
いつもは友達との予定を詰めたり
出かけてばかりで
せっかく帰っても
ほとんど家にいないけど
今回はあえてほとんど予定を入れず、
久しぶりに実家で
ゆっくりのんびり家族と過ごしました。
そしたら
今まで見えてなかった変化が
たくさん見えて。
おじいちゃんの目が濁ってた。
喋ったり笑ったりする顔は
変わってないけれど、
行動の其処彼処に、老いが感じられた。
おばあちゃんもそう。
前、こんなにしわ多かったっけ。
私の知ってるおばあちゃんは
いつもばっちり化粧をキメていたはず。
お向かいのおばあちゃんも
髪の毛が真っ白になってたり
お祭りがあって
久々に会った近所の人たちは
私の記憶のなかのその人達とは
ずいぶんと違っていた。
解体されて
跡形もなくなっていた小学校のプール。
小学生の頃
秘密基地をつくって遊んだ場所には
新しい公民館が建っていた。
友達の赤ちゃんは
いつの間にか大きくなって
きゃっきゃと走り回っていて
うちの近くには、数年後、
高速道路ができるとかできないとか、
リニモが通るとか通らないとか。
自然がまた無くなっちゃうんだ。
いとこの男の子は
私の背なんて遥かに通り越して
もう男の子じゃなくて
立派な男性になってた。
久しぶりに弾いた
実家のピアノは
音が狂っていて、所々、不協和音。
楽譜にも埃がかぶっていて
あぁ、どれほどの月日が流れたんだろうって
ぼんやり考えた。
「りなちゃん、また大きくなったんやないか?」と
私を見て笑うおじいちゃん。
前よりも
ひとまわり小さくなったように
感じられるおじいちゃんに
「私は変わってないよ」と言った。
でもきっと
おじいちゃん達にとっては
私も変わりゆく要因の一つなんだろうなあ。
変わってほしくないと願うことは
愚かなことなんだろうか。
なかなか上書き保存が追いつかない。
もちろん嬉しい変化だって
たくさんあるけれど。
なんだか自分の故郷が
自分の知らない場所に
なってしまうような
そんな感覚をおぼえて
少しだけ不安を感じました。
時間つくって、
もっと帰るようにしよっと。

2014年11月18日火曜日

新たに。

大学生の頃、ブログをずっと書いてた。
SNSが主流になってから、ブログよりも
FaceBookや、Twitterで、ぽつぽつ自分の思うことや感じたことを
文章にしてきたのだけれど

周りの人のすすめもあって

自分の言葉をなんらかのかたちで
まとめて残しておこうと思った。



日記をつけるのが好きで、
小学生から高校生くらいまで、ずっとつけてた。

あの頃の自分には、秘密がいっぱいあって。

気になる男の子と目が合ったお昼休みの渡り廊下。
友達と授業をサボって、芝生に寝転がって見た青空。
教室の窓から見える風景。
そういうものが色褪せていかないように、日記に記してた。

大人になるのが怖くて
忘れてしまうのが怖くて
いつかこの日記を見返すであろう、大人になった自分に
今の自分が何を考えているのか、どう感じているのか、
何が幸せで、何が不安で、何を求めているのか
それを思い出してほしくて、日記をつけていたのを覚えている。

おかげさまで、今の私は
たまに自分のつけた日記を読み返しては、くすりと笑ったり、
「こんなことを感じていたのか」と驚いたりする。
子供の頃の自分と会話しているみたいで、
日記を読み返す時間はとても大切な時間。

25歳になった今。
どちらかというと今の私は
自分のことばや想いを、自分だけの中に秘めておくというよりかは
発信したい気持ちのほうが強い。

だからあえて、「日記」ではなく
「ブログ」というかたちで
ひとつの記録として残しておこうかなーって。

まあ、そんな感じです。